2012.3.4 update
(東京大学大学院総合文化研究科博士課程/慶應義塾大学SFC研究所上席所員(訪問))
「ソーシャルマーケティング」など語感だけ何となくかっこいいマーケティングが盛り上がっているが、その多くは消費者の感度が高いということを前提にしすぎている気がする。
そもそもFacebookやTwitterをやらない人も多いし、Facebookでは友達の写真ばかりをアップ、Twitterを使ってもタイムラインは「@」で友人と会話だらけ、なんていうユーザーも多い。スマートフォンで初めてインターネットのサイト見るようになったような人をどこまで意識できているのだろうか。
その構造は「若者」に関するマーケティングとも似ている。
80年代であったら「若者」「東京」がトレンドセッター、カッティングエッジであるという前提があった。しかしもはやそういった前提が共有できない時代だ。それなのに今でもマーケティングといえば「中央の若者」や「リテラシーが高い人」にターゲットを絞りすぎている気がする。 もっとも自動車メーカーが明らかに地方に住む人向けのCMを増やしたり、さすがにこの傾向は変わりつつある気もするが。
日本郵政グループが「今年の一文字」というTwitterと連動したキャンペーンを行っていた。Twitterにポストした内容から、一番多くつぶやいた漢字と来年の運勢を占うというものだ。大がかりなFLASHを使ったお金を随分使っていそうなサイトだった。
しかし、そのような大がかりなサイトと、「○○ったー」のような誰もが簡単に作れる診断サイトと、消費のスピードは実はあまり変わらない。コンテンツにいくらお金をかけようが、一瞬で消費されていくのがネットの世界だ。しかもその消費のスピードが最も早いツイッターを使ったキャンペーンに多額のお金をかけるのはあまりにも勿体ない。
テレビも同じだ。もはやUSTで3人でやっている動画とTVが競合になる可能性だってある。
パソコンを当たり前に使う層にとっては、USTもテレビもどれもがワン・オブ・ゼムに過ぎない。セットにお金がかかっているとか、有名人が出演しているとか、そのような「クオリティ」とは別の次元での競争が起こっている。
しかしテレビは見なくなったのか、というとそうではない。
若者に限定しても、8割は今でもテレビを見ている。地デジ化でテレビ離れは起こらなかった。単純にコンテンツの奪い合いの中で、「つまらなくなくても見ていた」が「面白くないと見ない」と変わっただけろう。
世の中で言われているほどマスは崩壊していないし、テレビ離れも起こっていない。マスの力が以前より小さくなって、相対的にソーシャルメディアなどネットの影響力が大きくなってきたように見えるだけの話だ。
「マスメディアの時代は終わり、次はネット時代だ」と言われることがある。しかしその発想自体がマスメディア時代の発想だ。一つのメディアが世の中をくまなく覆い尽くす、という前時代的な発想だ。実際は、両者が共存していくに過ぎない。
たとえばシャンプーのような生活必需品を売るとしたら、いきなりTwitter使うよりテレビCMを打った方が圧倒的に効果的だろう。大量生産、大量消費のモデルで作られているモノを売る場合、宣伝だけソーシャルメディアを活用しても意味してもその効果は限定的に決まっている。
ソーシャルメディアと相性がいいのは、数千から数万の顧客を対象とする業界だろう。たとえば書籍なんて、大ヒット作をのぞいて数万部を売れば「ヒット」と言われる世界。著者がTwitterで宣伝に励むのは効果的だ。もっとも数十万部、数百万部を売ろうとするならば、本でもテレビCMや電車内全面広告を打つ必要がある。
ソーシャルメディアを使うくせに炎上を恐れ過ぎている企業が多い。しかし、今の「炎上」なんて昔の不買運動に比べれば生易しい。たとえば1970年代のカラーテレビ不買運動では、様々な消費者組合が徒党を組み、企業に何十億円の損失を与えている。
ネットのいいところは、炎上してもすぐに対応したらそれさえも評価してもらえるとことだ。
炎上を恐れて自由なことが出来ないならば、ソーシャルメディアを使う意味がない。ある程度のリスクを背負わないと競合他社との差別化はできない。
そもそもネットを使ったマーケティングで、消費者の気持ちを掴みきれないのは当たり前だ。マスメディアしかなかった時代は、消費者が声を上げる手段が限られていたので、企業側が消費者との「ズレ」をさほど気にする必要がなかった。まずは炎上覚悟、「ズレ」るのを覚悟で、そしてメディアの特性を活かして、その都度「ズレ」を調整していけばいいと思う。
※本記事は取材を元に「The Social Insight Updater」編集部が作成しました。
古市 憲寿