2011.1.28 update
(筑波大学 大学院 人文社会科学研究科 教授)
いつのころからか、コミュニケーションの場面で「空気を読む」テクニックが要求されるようになってきた。逆に、空気を読まない、いわゆるKYは、周囲から疎んぜられるようにもなった。
なんだか、日本人みんながそれぞれ間合いをとって、探り探りの人間関係を築いているようで、なんとも息苦しいではないか?
しかし、それがイマドキの人間関係をスムーズに回すツボでもある。 そして、空気を読んだらその場に合ったキャラを演じることも必須の技術。 そんな人間関係がはびこる社会で、消費は関係を維持するための「つながり消費」へと変化してきた。
さて、マーケティングのツボはどこにあるのか? 『キャラ化する/される子どもたち』の著者で筑波大学教授の土井隆義氏に聞いた。
日本社会は、構造的に’70年代後半からすでに成長社会ではなくなっていた。それでも、我々はまだ右肩上がりの意識をもっていた。しかし、’90年代のバブル崩壊によって終焉を迎え、「もう成長する社会は終わった」と一般の人も気づくことになる。
未来が開けているときには皆が先を見ているから、自分たちの関係の外部に目標がある。それによって人間関係の軋轢から高まったガスも抜ける。
しかし、バブルの崩壊でそのような目標は失われてしまった。成長社会において、目標というのは人によってそれほど大きな違いはない。豊かな社会を目指したい、裕福になりたい、有名になりたい、性能のよいクルマがほしい。物質的なレベルでの目標は、ある程度共通していたのである。
現在はそのような共通の目標をもてる社会ではなくなっている。その結果、人によって価値観もバラバラになる。それぞれの目標としている方向が違っているのだから、それを前提に人間関係を作っていかなければならないのだ。
よく、携帯電話がコミュニケーションのあり方を変えたと言われるが、それは一面的。社会の変化がコミュニケーションを変え、我々のニーズをくみ取るようにケータイが進化してきた側面もある。
そして、かつては制度的な共同体、たとえば家族の一員や地域の一員、学校の一員など、自分が属している集団の拘束力が強かったため、その枠組みに人間関係も縛られていた。良くも悪くも、制度的な枠組みに人間関係が規定されていたのである。
しかし、現在は制度的な共同体が弱体化しつつあり、とくに若者はそれに縛られることなく、自由な人間関係を作れるようになってきた。つまり、同じ学校の生徒だから、クラスメイトだからといって友達にならなければいけないという意識が弱まっている。自分と気の合う人とだけ友達になればいいと、価値観が変わってきているのである。
人間関係が制度的な共同体に縛られていた時代には、人によって人間関係の幅にそれほど違いはなかった。しかし、人間関係が自由化してくると、うまく人間関係を広げていけるタイプと、それが苦手なタイプで、人間関係の幅に格差が生じる。個人のコミュニケーション能力格差が顕在化してきたのだ。その結果、コミュニケーション能力が低い人間はダメだという価値観が広まってきたのである。
今、学校でクラスの一体感がなくなっていると言われている。学級という制度的な枠組みが人間関係を拘束しなくなってきているため、子どもたちは自分と気の合う友達とだけ人間関係を築く。だから、一体感がなくなっているのだ。
クラスには5、6人のグループがいくつかできるが、それがカーストのような上下関係を作っている。コミュニケーション能力が高く、場を盛り上げられる子どもがいるグループがカーストの上位に君臨しているのだ。カーストが違うと住む世界が違うから、カースト間のコミュニケーションはほとんどない。グループごとで別々の世界に生きているのである。
そんな人間関係の中で、子どもたちは自然と「空気を読む」ことを身につける。我々の世代はある程度価値観を共有しあっていたから、あうんの呼吸で意志が通じる部分もあったが、今の子どもたちは前提として違う価値観の上に立っているから、同じ光景を見ていても子どもによって捉え方が全く違う。
それでも、人間関係をつなぎとめて破綻させないようにするために、相手の意志を読まないとうまく回っていかない。つまり、空気を読まないといけないのである。
では、空気を読むために、子どもたちはどのような行動に出ているのか?
それが「自らをキャラ化する」ということである。人間関係を傷つけないように空気を読みあう中で、場面場面にあわせてその場を盛り上げるために、シチュエーションに合った、もしくはそのグループに合ったキャラを演じているのだ。
しかし、そのような場に合わせるのが苦手な子どもも当然いる。本当は図書館にこもって好きな本を読んでいたいと思っても、「あの子ひとりなんだ、かわいそう。イタイ子」と言われてしまうから、無理して友達の輪の中に入ってキャラを演じる。そんな子どもにとってはかなり辛い状況に違いない。
そのような子どもたちの親は、’80年代に学齢期だった30歳代が中心だろう。つまり、親はすでに「空気を読む」ことに敏感になった世代と言える。
経済発展を考えてみても、かつての親子は、親と子供の世代間で経済格差が大きくあった。しかし今は、ほとんど変わらない。つまり、今の親世代にも今の子ども世代と同じ傾向があるのだ。
だから、親子間で空気を読み合うコミュニケーションをとり、キャラを演じ合っているのである。親はいい親を演じ、子どもはいい子を演じる。
キャラを演じ合っていれば、人間関係はスムーズに回っていくが、それはあくまでも予定調和の関係。キャラを演じるということは、つまり、自分がこう出れば、相手はこう返してくるだろうと、コミュニケーションのやりとりがある程度予想できる関係にある。それでは人間関係はルーティンとしては回っていくが、決して深まることはないし、変化もしていかない。
初期設定として「何キャラでいこう」と決めてしまうと、そのキャラ設定に拘束されることになるので、人間関係が次のステージにバージョンアップしていかないのだ。現在の関係に対して各々が最適化し尽くすため、その関係をめぐる環境が大きく変化しても、それに呼応して関係のあり方を新たに作り直していくことができないし、また関係がどこかで傷つくと、そこで関係自体が即座に終わってしまうこともありうる。
壊れることをきっかけにお互いの人間関係を深めていこうという、「雨降って地固まる」的な発想はそこにはないのである。
そのような人間関係は薄いと捉えがちだが、それは全人格的な人間関係を築いていた40歳代以上の世代が受ける印象だろう。たとえば、人に10の要素があったとして、その世代は10の要素同士をつき合わせて関係を築いていた。
しかし、今は10のうち、自分の1と相手の1,2と2というように、趣味趣向があうところだけでつき合う、いわば多極分散型と言っていい。3と4は別の人とつながりをもつ。だから人間関係は薄いように見えるが、つき合っている部分では濃い関係を築いている。
趣味趣向が多様化し、人間関係が多次元化すると、消費するモノに求める機能に変化が現れる。
以前は機能を求めたが、今はコミュニケーションの手段を求めているのである。つまり、消費物を媒介に、人間と人間が結びつくための素材として消費するというわけだ。
それを表現したのが「つながり消費」という言葉である。消費することが目的ではなく、その商品を通して人間関係を作るのが目的。たとえコスメでも、キレイになった自分に満足するためではなく、それを通してコミュニケーションをとるための素材として捉えているのである。
だから、自分がいいと思ったモノでも、友達が同じ評価をしなければお互いつながりをもつことができないから、そのモノには関心をもたなくなってしまう。その結果、いわゆる定番商品しか売れないという傾向が出てくる。そこには、みんながいいと思えば、安心できるしつながれるという心理が働いているのだ。
多次元化した人間関係は、「トライブ」という言葉で整理するとわかりやすい。
制度的な共同体の強かった時代は、学歴や収入のような客観的な属性でグループ分けができたが、その拘束から自由になった今、人間関係の構築もフリーになっているため、客観的な属性では分類できなくなっている。だから、趣味趣向のような主観的な基準でグループ分けすることが必要になっているのだ。
たとえば、同じ20歳代の中にも大学生と働いている社会人の両方がいるが、アニメ好きという部分ではつながることができる。それを「トライブ」として括るわけである。
同じ人間が、属するトライブごとにキャラを使い分けているのだから、それぞれの関係ごとにつながる消費が生まれる。それは一見、企業にとっては明るい材料のようにも思えるが、しかし、同じトライブでも、それがさらに細分化されていく。たとえば、BL(ボーイズラブ)でもそれぞれ“萌えツボ”が違うから、同人誌を作ることが難しくなっているという。
だから、どこに向けて何を発信すればいいのか、判断がさらに困難になってきていると言っていい。
調査も難しいだろう。調査をされる側は、調査者の意向をくみ取って、つまり空気を読んで、相手が期待するようなキャラを演じる。そこから得られる調査結果は、果たして信頼に足るものだろうか?
つながり消費の場合、ある価値観を押しつけたり、引き込むようなコミュニケーションは難しい。アマゾンはなぜ成功しているか? 買おうとしている本のページには「この商品を買った人はこんな商品も買っています」という欄がある。引っ張り込もうとするのではなく、情報をくれる。
つながり消費として考えれば、自分が興味を持った本を買った人が、別の本も買ったと知れば、それも読んでみたくなるのが当然の心理である。しかも、人為的なものではなく、コンピュータが統計的に提示した情報だから、押しつけがましさもない。
意志決定がしにくくなっている社会にあって、メーカー発信のトップダウンが最近のマーケティング発想であるが、定番であると断定されることで安心したい心理があるとすれば、押しつけがましささえ排除できるなら、それも一つの有効な方策となりうる。「これが定番商品です」と発信すれば、多くの人は飛びつくだろう。みんなが使っている安心と、つながれるという心理が刺激されるからである。
※本記事は取材を元に作成。
土井隆義